ターザン&柴田の1億総勝利宣言
■ターザン山本
元週刊プロレス編集長。巌流島プロデューサー谷川貞治氏とは、週刊プロレス、格闘技通信を発行していたベースボールマガジン社時代の上司・部下の関係。
■柴田和則
フリーライター。巌流島の運営スタッフ。巌流島オフィシャルサイトの編集、外国人選手のブッキング、選手管理など諸々の運営業務を担当。
ターザン山本に残された時間とは?
柴田 山本先生、とうとう死亡宣告されたとか。大丈夫ですか?
ターザン 死亡宣告じゃありませんよ。難病指定・告示番号93「原発性胆汁性
肝硬変」の宣告をされたんですよ。
柴田 つらい症状なんですか?
ターザン 自覚症状はないんよ。肝臓は沈黙の臓器だから。たまたま血液検査をしたら肝臓の数値が高かったので、検査をしたところ肝臓の難病だったと。
柴田 ちなみに難病の定義とは?
ターザン 原因がわからない、特効薬がない、ということですよ。要は医学が進歩したことによって、いろんな難病が発見されるようになったんだよね。それで今は難病がたくさんあるわけ。原因ははっきりしないけど、お腹が痛くなりやすいとか、視野にちょっと問題があるとかね。今の医学界が、それらすべてに病名を名付けるようになったということなんよ。
柴田 なるほど。難病だから今すぐ死んでしまうというわけではなく、難病を抱えながら100歳まで生きることもあると。
ターザン しかし、とはいえ進行性だからね。モハメド・アリさんもパーキンソン病が進行して亡くなったじゃない。マサ斎藤さんもそうだよね。パーキンソン病も進行性の難病だから。
柴田 じゃあ山本さんの難病も進行していくの?
ターザン まだはっきりとはわからないんだよね。
柴田 それはどんな心境なんですか? やはり怖いものですか?
ターザン まぁ、73年も生きていたら病気のひとつやふたつはありますよ。俺が思うに原因は寝不足だろうな。肝臓を酷使しすぎてパンクしたんだろう。
柴田 ああ、それは若い頃に? 週刊プロレスの編集長だった頃とか?
ターザン ちがいますよ。最近ですよ。
柴田 今は超暇人じゃないですか(笑)。仕事もしてないし、時間はたっぷりあるでしょ。
ターザン 僕はめちゃくちゃ忙しいんですよ。朝まで遊ぶとか。キャバクラに行くとか。
柴田 おじいさんなんだから、とっとと帰って寝なさいよ(笑)。
ターザン いや、人生は夜が一番おもしろいわけ。昼間はフェイクだから、なにもおもしろくないんよ。
柴田 こうして難病を宣告されて、なにか心境の変化とかはあるんですか?
ターザン チャンスだと思ってますよ。
柴田 チャンス?
ターザン ビッグチャンスですよ。
柴田 どういうこと?(笑)。宣告されて、恐怖とかありましたよね?
ターザン ない。
柴田 悲しみとか。
ターザン ない。
柴田 やるせなさとか。
ターザン ない。だって俺はピンピンしてるんだもん。肌ツヤいいんだもん。
柴田 長い目で見ると、いずれは肝硬変になって、癌になるということ?
ターザン 最終的には機能停止するということだよね。でもどう進行するかはわからないんだから、気にしたって意味ないわけよ。
柴田 まぁ、我々40代や50代の人間のほうが、山本さんより先に大きな病気にかかるかもしれないし、こればっかりはわからないですよね。20代や30代だって、なにがあるかわからないし。こればかりはすべての人間に平等ですからね。
ターザン 俺がここに存在しているということはさ、父親がいて、そのまた父親がいて、江戸時代から室町、鎌倉、平安とずっと繋がっているわけじゃない。弥生時代、縄文時代のその先まで10万年以上繋がっているわけよ。
柴田 みなさん、それぞれのルーツに悠久の歴史がありますよね。
ターザン だから、我々という生命体はいろいろな難病を抱えているわけですよ。それが表に出るかどうかよ。一生出ないやつもいるし。俺には93番目の難病が出たというだけのこと。あるいは癌や脳卒中や心筋梗塞で死んでしまうわけじゃない。そんなもんよ。そんなもん。
いつか死ぬ自分を想像する
柴田 いつか死ぬ自分を想像してしまったりしないんですか?
ターザン しませんよ。それは今じゃないんだから、べつにいいじゃない。明日じゃないんだから関係ないよ。明日だったら俺も考えるけどさ。明日じゃないんだから、べつにいいじゃない。
柴田 将来を考えて不安になるだけ無駄?
ターザン まったく無駄だね。俺は今日という一日のことしか考えないから。
柴田 へぇ〜。
ターザン だって今日という一日しかないじゃない!
柴田 そんな口をとがらせて言われても(笑)。
ターザン 今日という一日を足し算していってるだけ。足し算をしていってることが、引き算になってるのよ。
柴田 歳を重ねていくことが人生の引き算になっている。そんな人生で我々は何を考えて生きていったらいいんでしょう?
ターザン 今日という一日を生きているんだから、なにも考えなくていいじゃない。「今日は日曜だ。競馬がしたい。だけど金がない」。これが俺の一日ですよ。
柴田 発表するほどの一日でもないですね(笑)。
ターザン それでいいんですよ。でお前に呼ばれたから、こうして神田まで来て話してる。そういう一日ですよ。
柴田 でも世の人々はいろんな不安を抱えながら、日々を生きてるわけじゃないですか。
ターザン 不安なんてないよ。不安を感じてるやつなんて、一人もいませんよ。
柴田 一人もいませんか。
ターザン 生き死にかかわる不安を感じてるやつは一人もいない。みんなそれを排除し、除外してるから、毎日生きてられるわけですよ。そんなことを真剣に考えたら、全員が死ぬ前に精神病になって狂ってしまいますよ。
柴田 発狂してしまう。
ターザン 発狂する。発狂しないほうがおかしいですよ。生きるとか死ぬとかを直視しないことで、毎日を生きられるわけですよ。不安というのは、明日は支払い日だけど銀行でおろすお金がないとかさ。そういう俗世間の悩みですよ。
柴田 そうじゃないと、生きているのに生きた心地がしないという、本末転倒な状態になってしまいますしね。
いざ無の境地へ
ターザン おもしろいのはさ。俺がSNSで難病をカミングアウトしたのに、誰ひとり俺に電話してこなかったことだよね。
柴田 みんなスルーした(笑)。
ターザン これは笑ったよ。要はターザン山本が難病になったということにリアリティがないんだよね。ターザン山本が難病になるわけがないというさ。あるいは俺が信用されてないんだよね。
柴田 まぁ後者でしょうね(笑)。
ターザン カミングアウトしたのに、誰からも電話もなければメールもないというさ。これにはまいったよねぇ。
柴田 それでやけになって、自分から情報を発信しまくって。
ターザン そう。自分から徹底的にアピールしてやったんだよね。「俺の難病はこうですよ! ああですよ! 大変ですよ!」って。完全に一方通行ですよ。
柴田 このソーシャルの時代にいっさい双方向性がないという(笑)。
ターザン 今回の件で検査入院もしたんだけどさ、見舞金なんて1円ももらってないからね。普通はあるよねぇ。深刻さや残酷さがまったくないんだよね。俺自身がそうだから。普通は弱気になるだろうし、考えこむだろうし、悩むだろうし。でも俺はこの難病というのをこれからの人生のいい材料にして、糧にして生きようと思ってるんだよね。
柴田 では、そんな新ターザン山本の心身に今起こっていることとは?
ターザン まずね、人生守りに入ったらおしまいなわけよ。守りに入らないために俺はあることをしたんよ。
柴田 なにをしたんですか?
ターザン 現金ゼロ。貯金ゼロ。とにかくゼロにするわけ。そうしたらそっちのほうが切羽詰まって、難病より大変になるだろ。明日どうやって生きていこうかな? 今月はどうやって生きていこうかな? ということによって難病を忘れるわけ。服も本も捨てて、家の中をからっぽにしようと。俺はそこまで振り切ったんだよね。無に近づけるというか。
柴田 あえて無になって。
ターザン そうするともう守るものがなにもなくてさ。難病どころじゃないんだよね。で人間関係も断捨離しないといけないんだよね。
柴田 無駄に人と繋がりがないほうがいいと。それはなぜ?
ターザン こうなったら自分自身を見つめて生きようと思ったんだよね。己を見つめようと。そこに楽しみを見つけようと。
柴田 もともと自分が大好きなんだから、もう十分に見つめたでしょうよ。
ターザン 俺は適当に生きて、毎日おもしろおかしくやってきたんだよね。でも、こんなのんべんだらりとした楽しい生き方が、難病によってもうできなくなるかもしれないわけ。であればちょっと真剣に、ちょっと真面目に人生を見てみようかなという形に切り替えたわけよ。
柴田 具体的にライフスタイルがどう変わるんですか?
ターザン ひたすら書斎にこもって、音楽を聴く、本を読む。で支度するというライフスタイルだよね。
柴田 内なる自分に向き合って。
ターザン そうそう。哲学的に生きようと。それで小説を書くとか、詩を書くとか、戯曲を書くとか。そういうことをやってもいいんじゃないかと、俺は今、気持ちを新たにしているんだよね。
柴田 お〜、小説を執筆する。それは新年のあいさつで毎年聞かされているような気もしますが(笑)。
ターザン そんな面倒くさいことはしないほうがいいわけじゃない。でもこの難病のお告げがあったことで、ちょっと待てよと。自分に与えられた才能に対して、最後のご奉公をしようじゃないかと。俺は今そういう気持ちになっているんだよね。
柴田 神の啓示があったんですね。
ターザン そう。だから今、小説を書くか、戯曲を書くかということで練っているわけ。そのためには時間を作らないといけないから、人と遊んでる時間や雑用を断捨離しないといけないんだよね。絶対的な集中力が必要だから。
柴田 そっちの世界に自ら没入していく。
ターザン でも本来はそんなことをしたら早死にするわけよ。物書きはほとんど早死になの。夏目漱石は胃潰瘍になるし、芥川龍之介や太宰治は自殺してさ。発狂するとかノイローゼになるとか。
柴田 生活には不自由していないのに、自ら命を絶つという。
ターザン そうそう。そういうことになるんですよ。あと社会的にどんなに功なり名を残したとしても、どんな人間でも死んだら一瞬で忘れられるんですよ。だから俺の死生観は死んだら終わり。それで俺は何をするべきかというのを初めて真面目に考えたわけよ。死んだら終わりなら、まずいなと。生きてるうちにちょっぴり何かやろうかと。死には無条件降伏なんだけども、ちょっとだけ抵抗してみようかなと。そういう気持ちになったことが俺の最大の変化というか、今の心境ですよ。
柴田 その気持ちというのは、生に対する執着につながるわけではないんですか?
ターザン あのね、俺は週刊プロレスのカリスマ編集長として、一度頂点に立ったわけ。一世風靡したんだよね。大成功したわけ。
柴田 一世風靡て。自分で真顔で言うかね(笑)。
ターザン だから野心とか野望とかは、もうどうでもいいの。でもちょっと真面目にやろうと思ったわけ。だって、俺はジャイアント馬場さんは死ぬと思ってなかったもん。今でも死んだと思ってないわけですよ。でも死んでるでしょ。もうみんな馬場さんのことは忘れてるわけ。山本小鉄とか星野勘太郎とかラッシャー木村とかさ。もうみんなこの世にいないわけじゃない。
柴田 亡くなったんですもんね。
ターザン うん。それで終わりだよね。
柴田 その方々にしても山本さんにしても、ある一つの業界で名を残したわけですけども。
ターザン 残ったとしても、「まだやりきってねえな」みたいなのが、まだ自分の中にあって。それで方向転換しないといけないなと。いつ死ぬかわからないけれど、ちょっと真剣にやってみようかなみたいな。
柴田 73歳にして「まだやることは残ってる」という感じがあるんですか?
ターザン ある。予想もしてない形で難病を宣告されたので、そこからちょっと考えたよね。
柴田 山本さんの中で潜在的に存在していたものが、きっかけを与えられたことで表に出てきたと。
ターザン そういうことだろうね。
柴田 人間、追いこまれないと、なかなかやらないですからね。ときに自分を追いこむことも必要ですよね。
ターザン だから俺はあえてゼロに、無に向かってるわけだよね。無駄なものをどんどん削ぎ落としていくわけ。
日本人の死生観は「あ、死んだか」「あ、生まれたか」
柴田 じゃあ、今はむしろ前向きな気持ちになっているんですね。
ターザン うん。きわめて前向きに生きてるね。確実に以前より前向きになってる。
柴田 死を垣間見ることで、逆に生きる意味を見つけた感覚があるというか。
ターザン あるね。でも今さら人の目を気にしてとか、結果を気にしてとか、承認欲求のためにとかいうことじゃないんだよ。あくまで自分と向き合いたいという、それだけのことなんだよね。最後に本気で自分と向き合ってみたいという。
柴田 自分と向き合いたいという欲求と向き合うというか。そこにはもう他者はいないわけですよね。
ターザン 自分が最大の他者ですよ。自意識にとっては自分が最大の他者なんだから。最後はそこに辿りつくわけですよ。自分とのモノローグが、ダイアローグになってるわけ。
柴田 死後に他者にどう思われるか、というところはすでに超越していて、あくまで自己との向き合いの世界だと。なるほど。ではいわゆる日本人の死生観というのは、どんなものなんでしょう?
ターザン ない。日本人に死生観はない。
柴田 それはまたなぜ?
ターザン ひとつの知恵だよね。死生観がないということは、神がいないということだから。死生観があるとなると、神が上位にいないといけないから。でも日本人には神がいないから、死生観もないんですよ。死んだら「あ、死んだか」みたいな。生まれたら「あ、生まれたか」みたいな。
柴田 「生まれたか。死んだか」。超自然主義というか、究極の自然体ですね(笑)。
ターザン 世界においても非常にユニークな人々なんだよね。そこに神というプレッシャーがないわけだから。神に対して、こちらが支配されるという関係性がない。
柴田 本来は従属関係のようなものが存在する。
ターザン ああしろ、こうしろという命令があってさ。
柴田 日本では従わせる者も従う者もいなかった。
ターザン 勝手にのんべんだらりと生きて、ああ死んだかというさ。
柴田 あとは太陽が回っていて、夜になったら月が出てという。それがもともとの日本人の死生の感覚だろうと。それによって幸せに生きられる?
ターザン うん。平和に生きられますよ。変な邪念とか、不安とかはなくて、日常生活に完璧に密着して生きて死ぬんだね。日常的時間に埋没して生きるというか。すごい知恵ですよ。
柴田 仏教にしてものちに日本に入ってきて、形式的にやっているだけですもんね。お寺に行ったあとに、神社もはしごするという。
ターザン 寺だろうが神社だろうが、どっちでもいいんですよ。こんないいかげんな民族はいませんよ(笑)。
柴田 哲学や知恵として仏教から得ているものは大きいでしょうけど、そこで神に従う・従わせられるということではないわけで。
ターザン 我々にはバイブルがないしね。
武士道と生き死に
柴田 ただ、その後、日本なりの社会の形成にともなって「武士」というものが誕生し、「武士道」というものが発生してきますよね。
ターザン あのね、武士道の死生観を出してきたら、はっきり言えることがあるんですよ。女には死生観がない。男には死生観がある。その男の死生観というのはね、見栄ですよ。男とはこうあらないといけないとか、使命感とか、男という形態があるんだよね。恥ずかしい人生は生きられないとかいう縛りがあるわけよ。男の場合はそれを考えるから、死にある種の限界があるわけ。
柴田 死の限界?
ターザン フィクションとしての人生を生きようとして、フィクションを完成させて、男という人生をかっこよくまっとうしたとしても、結局は死が現れるわけだ。だから、男は死を絶望として認識して生きる生きものなわけよ。それに対して女の人はフィクションがないから。生命体として、子供を産むというのはあるけれど。生活に密着していてフィクションがないから、そういうことは考えなくてもいいわけですよ。
柴田 男はフィクションから逃れられない?
ターザン 男は出世するとか、金儲けするとか、有名になるとか、そういうフィクションがいっぱいあるから、それをやればやるほど死に対する絶望が不可逆的に膨らんでいくわけですよ。だから、フィクションがなければ楽なんだよね。
柴田 かっこよく死にたいとか、美しくありたいとかいうフィクションがあるゆえに死に限界を感じる。
ターザン そうそう。美意識とかね。でも結局死ぬと思うと、なんのためにそんなことをしているんだというさ。
柴田 「はい死んだ。はい生きた」の世界ではないですよね。
ターザン だから男は死を意識しているわけ。なんぼやっても、死はあるんだということにいきつくわけですよ。だからこそ武士道では、逆に死に対して突入していくんだよね。
柴田 自殺ということではなしに、自ら死に突っこんでいく。
ターザン 自ら死を引き入れるというか。それによって死をフィクション化するわけですよ。それでかっこよく死のうというさ。俺たちはそうはなれないけれども、同じ男だから、その武士の影響がおりてきてるわけですよ。武士道というのは、男の理想の生き方を極限的に作り上げたものだから。
柴田 男という物語が極限の純度で結晶化されたものというか。
ターザン それが特異な形で美意識になったのが武士道なんだよね。純化しすぎて腹を切ったりするわけですよ。
柴田 フィクションゆえに現実世界からはずれていってしまう。
ターザン 三島由紀夫みたいに自決したりとかね。
柴田 自分の人生において美意識を結実させるためには、自決する以外ないという。そう考えると日本人というのは、実に奇妙な生きものですね。と同時に、日本人であるからこそ、その感覚が理解できるというのもあります。
ターザン そうだね。美意識というフィクションのほうが上にいっちゃうわけだよね。
柴田 すぱっと美しいままにフィクション化して終わらせると。そこに憧れる部分はありますもんね。ほとんどの男はそれができずに「こんなはずじゃなかった」と死んでいくというのが、山本さんの考え。では三島由紀夫は死に際して、そんなことはなかったと?
ターザン 三島由紀夫の場合は完全に自己演出だから。
柴田 そういう意味では、自分の作品を完成させて満足して死んでいった?
ターザン 大満足ですよ。
柴田 ちゃんとフィクションで終えられたという。
ターザン そうそう。これ以上生きたらかっこよくないなと。
柴田 俺という男のフィクションが成立しなくなってしまう。そちらの恐怖のほうが、死の恐怖を上回るという。それはたしかに一見すると、狂気の沙汰という見方もされてしまいますよね。
ターザン 武士というのは自分で物語を創り上げるものなんだよね。
柴田 武士とはクリエイターであったということか。
ターザン そうだね。庶民のレベルでもその形態は一緒なわけですよ。だから庶民レベルでも、男は死に対する絶望感があるわけだよね。みんな死ぬときは結局、挫折感を持って死んでいくわけ。「なんでこんなところで死ななきゃいけないんだ」とか。「俺にはまだやり残したことがある」とかね。
柴田 もう十分に誇れるものを現世に残したから、死んでもいいとはならない?
ターザン ならない。どんな状態だろうと、死にたくないと思って死ぬのが男ですよ。
柴田 じゃあ、すべての男性が死に際しては平等なわけだ。
ターザン 死にたくないと思って死んでいくという意味ではね。とまぁ、俺は難病を宣告されて、そういうことを考えたわけよ。
柴田 最後は絶望しながら死ぬわけだけども、やりきれるところまでやろうという欲求があるわけですね?
ターザン そうそう。そういう欲はあるの。無駄なことなんだけどさ、それでも最後までやり続けるしかないんだね。
中性化する日本の男と女
柴田 あと現代は「女性」というもののあり方も変化しているでしょうから、男女のあり方も変容するかもわからないですよね。
ターザン そういう意味では、男でも女でもないやつは自由なわけですよ。美輪明宏さんとかは、性からも自由な存在だから。
柴田 マツコデラックスとか。
ターザン うん。これからはオカマの時代ですよ。
柴田 前回はこれからは女の時代だと言っていたのに(笑)。これからは「オカマ武士道」の時代。
ターザン 男という生きものの宿命、女という生きものの宿命から自由であるというね。
柴田 どちらからも縛られないし、一方ではどちらにもなることができるし。ああ、それで今、世の中が中性化していってるのかもしれないですね。
ターザン そうそう。
柴田 必然的な流れでそうなっていると。なんか繋がったなぁ。いいところに着地できました。
ターザン 当然じゃないか。なんたって俺は整合性の塊だから。
柴田 しかし、武士道というのは、非常にけわしい道のりでございますね。
ターザン だから、ほとんどの人間は絶望して死ぬわけよ。
柴田 山本さんは一方で「人は負けることをおぼえるべきだ」という言い方もされるじゃないですか。それは生き方というか、死生観にも関係してくるんじゃないですか?
ターザン あのね、人間には二つあるんですよ。勝つことで快楽を得る人と、負けることが勝つことよりももっとおもしろい快楽になるという、二つのタイプがあるの。大多数の人は勝つことに快楽を求めるわけ。ところがもっと上の人は負けること、悲惨になること、非常に困難な状況になること、悲劇に陥ることに、勝者になることよりもずっと大きな快感を感じるわけですよ。
柴田 非常にM野郎的な快感ですね。勝利が絶対的な価値観ではないと。
ターザン 勝利を求めるというのは、オール・オア・ナッシングの世界だよね。でも負けに快楽を得られる人にとっては、ナッシングじゃないんだよね。ナッシングがひっくり返るわけ
柴田 ああ。負けがナッシングではないし、むしろ負けがオールになることもある。
ターザン うん。本人の中でね。
柴田 自分が気持ちいいと思えたら、そこで勝ちだと。
ターザン だって負けることにしか物語はないんだから。負けるということが、勝者にも敗者にも物語を作るんですよ。
柴田 なるほどなぁ。それはきっと人生の歩み方にも繋がる話ですよね。
巌流島史上、最高に武士道的だった男とは?
ターザン 桜庭和志も負けてるときが、もっとも物語があったじゃない。何度やってもヴァンダレイ・シウバに勝てないという。あれが最大の物語だよね。
柴田 あそこに一番のドラマがあり、最大の快感があったと。
ターザン うん。桜庭がどう感じてたかは知らないよ。
柴田 桜庭さんにとっては、快感ではなかったと思います(笑)。
ターザン そんなこと私は知りませんよ。
柴田 勝手な妄想かもしれませんが、精神世界まで持っていって語るからおもしろいんですよね。
ターザン 精神世界まで持っていくことができるのが、武道であり、武士道なんだよね。
柴田 それによって西洋の「殴った・勝った・頑張った」という格闘技とは、異なる世界まで持っていけると。だから武道なんだと。そもそも「なぜ武道なのか?」というのは、もっとみんなで考えないといけないテーマですよね。改めてね。
ターザン 武道というのも勝負論ではあるんだけども、武道は負けることは己の死だと思ってるの。その一点が違うわけですよ。格闘技の場合は、負けるというのは勝負論だけの負けだから、全然違うわけ。武道の場合もルールの中でやるんだけど、負けることは存在の死であると。その一点で他の競技とはまったく違うわけ。
柴田 ぱっと見は一緒なようだけど、入り口が「生死」であることによって、まったく異なる世界観になるという。
ターザン 勝っても負けても、もしかしたら俺が負けていたかもしれない。死んでいたかもしれない。というので、勝者も敗者もともに死を意識することで、勝者が勝ったことのみで終わらないんだよね。敗けた相手の気持ちもわかる、ということになるわけ。俺がそっち側だったかもしれない、という気持ちになれるんだよね。
柴田 死を意識するからこそ、相手をおもんぱかられる。それが世界に発信できる日本特有の価値観ということか。
ターザン あちらは競技の概念だけで、生死の概念がないわけだよね。それができるのは日本人だけですよ。
柴田 生死の概念があるときに、人の立ち居振る舞いはどう変わってくるか。
ターザン だから一度負けたやつが、同じ相手に挑戦するのはおかしいわけですよ。死んでるんだから。なので、武道にはリベンジはない。
柴田 再戦はやるべきではないと。
ターザン やるべきではないというか、ないんですよ。死んでるんだから。再戦することは、勝ったものに対して失礼なんですよ。
柴田 本来は整合性のない話であると。
ターザン もちろんエンターテイメントとしては面白いわけだよね。でも原理的にはおかしいわけ。一度負けたら死なんだから。
柴田 本来は一度負けたら引退だと(笑)。現実的にはむずかしい話ですけどね。それではエンタメやビジネスとして成立しないから。
ターザン でも現実にそれをやった人がひとりだけいたじゃない?
柴田 誰? そんな人いましたっけ?
ターザン 渡邉剛さんですよ。
柴田 え?...... あ〜、15秒でKO負けした60歳の合気道の達人。
ターザン そう。あの人は二度と出てこないじゃない。あれが武士道ですよ。
柴田 まさかここで渡邉さんの名前が出てくるとは。あの人は単に試合で通用しないとわかったから、出てこないだけじゃないんですか?
ターザン 違いますよ。一回負けて死んだと思ったから出てこないんですよ。
柴田 そういうことなの? すごい想像力だなぁ(笑)。現代の武士道の体現者は渡邉剛であると。これまた、いいオチというか、いい感じに繋がったなぁ。
ターザン だから言ってるじゃない。俺は整合性の男だって。みなさんにそれさえわかってもらえたら、俺はこの世になんの未練もありませんよ。
柴田 そうですか。といってもまだ色々と語り合いたいんで、しばらくは元気でいてくださいよ。
ターザン おう、また語ろう。