ターザン&柴田の「風の声ラヂオ」
■ターザン山本
1946年、山口県生まれ。元週刊プロレス編集長。カリスマ編集長として一世を風靡するも、1996年に記事「地方で手を抜く新日本」をきっかけに新日本プロレスから取材拒否を受け、責任を取って編集長を辞任。同年に発行元を退社。その後は流浪の者となり自由に生きる。
■柴田和則
秋田生まれ。2006年、豪州に渡り、放浪ののちユダヤ人学校の清掃夫の仕事を得る。2008年、現地の日系誌にライターとして参加。2010 年に帰国し、K-1オフィシャルサイト編集部に所属。2015年、「巌流島」の立上げに合流。2020年、女武士道「凛」の旗揚げを企図。2021年、ターザン山本と「Voicy」の配信を開始。
君はユートピアを信じるか?
柴田 山本さんは今でもユートピアは信じてるの?
ターザン 自分なりのターザン・ユートピアは信じてますよ。現に存在するし、それを楽しんでるわけよ。
柴田 さらなるニューユートピアもあるんじゃないかと思う?
ターザン 思ってる。その勘違いがいいわけですよ。
柴田 自分の中にユートピアを持ったほうがいい?
ターザン 持ったほうがいい。ここでもうひとつ重要なキーワードになるのが、ユートピアの反対語であるディストピア。このディストピアが、実はユートピアを侵食して、パーセンテージでいうとディストピアのほうが面積が広くなった。
柴田 現代においては。
ターザン そう。もうユートピアに対する幻想はほとんど持たなくなって、裏返しとしてのディストピアのほうに気持ちが向いてるわけ。
柴田 たしかに今ってディストピアは聞くけど、ユートピアというワードを使うバカはいないもんね。そんなバカは俺らくらいで(笑)。
ターザン ユートピアはもう死語なんですよ。その代償としてディストピアがリアリティを持って、現代人を支配するようなムードになっているのが今の時代ですよ。
柴田 とてもユートピアなんて言葉を使う空気感ではない。
ターザン ない。ディストピアを完全否定するわけではないんですよ。ディストピアに対するある共感が働いているところがミソなんですよ。だからディストピアを題材にした劇とか漫画が世の中に浸透しつつあるの。
柴田 多いよね。
ターザン 否定としてのディストピアじゃないんですよ。
柴田 もはや否定も肯定もない。目の前にあるものを描くしかない、という状態。
ターザン ユートピアがないんならもうディストピアしかないじゃないか、というある種の決めつけというかね。
柴田 で実際、今の若者にはそれが目の前の現実のように見えているということね?
ターザン 見えてる。 今の若者にとってはディストピアが身近なものとして内在化してる。だからといって決定的に絶望してるわけじゃないと。ディストピアをちょっと親しみのあるものとして身につけて、精神的にバランスを取っていると。
現代のもっとも先鋭的な標語として定着した「ブレイキングダウン」
柴田 いっても人間、ディストピアでは生きれないしね。昭和にはユートピアは形としてあった?
ターザン あった。
柴田 一応。
ターザン ユートピアというのは幻想であって、そのときも本当はなかったわけですよ。なかったんだけど、夢として蜃気楼のように、実態はないんだけど、ユートピアを前提として持っていた時代があったということですよ。
柴田 国民が共有して。それをエネルギーにして前に進めた時代があった。
ターザン そう。ユートピアを設定することで人生観の安定をもたらしていたと。
柴田 心を安らかにしてくれる精神安定剤になっていた。
ターザン そう!
柴田 そのアイコンになっていたのが昭和のキャンディーズとか、ピンクレディーとか。
ターザン 三人娘とか、長嶋茂雄とか!
柴田 巨人、大鵬、玉子焼きとか。
ターザン 新幹線だとか! 大阪の万博だとか!
柴田 それらすべてが昭和のユートピアのアイコンとして作用していた。神棚みたいなものだね。パンパンっと。
ターザン そうそうそう! 皆さん全員でそういうところに向かっていくという共同幻想ができあがっていたわけ。それが高度経済成長と重なっていたと。
柴田 今はそういうのが全部ないもんねえ。
ターザン そこで今の時代に突然変異のように、わけのわからない形で変なやつが派生したと。それが「ブレイキングダウン」ですよ。
柴田 朝倉未来氏の。
ターザン だからブレイキングダウンが現代において、もっとも先鋭的な標語として定着したのは当たり前だよな。
柴田 良くも悪くも今の現実をうまく切り取っている。
ターザン ブレイキングダウンは、今まであった価値観、システム、共同幻想はもう意味ないんですよと。格闘技であれば、ルールをきちんと決めて、賞金も決めて、階級も決めて、大きな会場で、コーチもいて、選手もいて、皆さん努力して、というシステムがあるじゃない。そういうこと自体がもう意味ないんだよ、とあからさまに示したのがブレイキングダウン。
柴田 既存の価値観に意味を見出せない人が集まって、意味を見出せない人が観て、再生数500万回なんていう国民的コンテンツになってしまっていると。
ターザン 12月28日に両国国技館で谷川がやったじゃない。
柴田 谷川ボンバイエね(笑)。
ターザン あとRIZINは大晦日にやったじゃない。NOAHは元日にやったじゃない。そういう大きなマクロな世界の価値観は、昔の幻想の残像なわけですよ。遺物というか。
柴田 昭和のユートピアの蜃気楼ね。
ターザン そう。そこで最後の砦になって、遺跡のような形になってるわけ。
柴田 そうか。平成・令和以降の人たちにはその蜃気楼さえ見えていないわけだ。
ブレイキングダウンには記録も記憶も必要ない
ターザン 過去の幻想を代弁する最後の生き残りになってるわけだよね。でもブレイキングダウンは、そんな面倒くさいことはもうどうでもいいよと。そんな価値観も必要ないよと。だからもう1ラウンド1分でいきましょうと。そのために練習するとか、努力するとかは関係ない。プロもアマも関係ない。どんなやつでもYouTuberでも出てこいといって、めちゃくちゃな世界をやったら、こっちのほうが面白いじゃないかと指示されたわけですよ。
柴田 そのほうが刺さったんだね。現代人には。
ターザン なぜ刺さったかというと、パッと一発やって線で繋がらないんですよ。次がないんですよ。
柴田 線がないということはノーフューチャーということだよね。
ターザン 点だけで終わって、点滅したり、消灯したりする。それだけでいいわけですよ。ブレイキングダウンに記録は必要ないわけですよ。ブレイキングダウンには記憶も必要ないわけですよ。ブレイキングダウンには思い入れも必要ないんですよ。
柴田 次に繋げるものじゃないから。
ターザン そういうほうにものすごくアナーキーにブワーッと行ってしまったということは、今までの何かが完全に終わってしまったと。終焉したことのひとつの証明というか。だからといって、ブレイキングダウンが流行現象として、時代の支配的になるかといったら、そうは限らないと。素人みたいなものだから。
柴田 それがマジョリティになったら、その時点で存在意義を失うからね。そういう意味では刹那的なものだよね。
ターザン 非常に刹那的なもので、どうでもよくて、意味がないからいいわけですよ。
柴田 だからブレイキングダウンが「展望」とか語り出したらおしまいだもんね。
ターザン 展望もクソもないんですよ。出てくるのはろくな者じゃないんだから。
柴田 ディストピアの人たちで成り立ってるわけだから、それがユートピアになってしまったら、もうなんなんだ?ってことになる。ブレイクでもダウンでもないってことになる。そういう矛盾を抱えてるよね。
ターザン 今の世の中の反面教師として出てきたわけだね。
柴田 カウンターカルチャーとして。
ターザン だから、これは単なるツナギかもわからない。
柴田 その時代時代のイベント(出来事)ということで。
ターザン でも人々が面倒くさいものはもうどうでもいいや、ということになって、ガーッとそこに惹きつけられて、ブレイキングダウンというのが流行り言葉になっていること自体に、大きな意味があるわけですよ。
柴田 いろんな批判もあるけれども、良くも悪くもこっちのほうが今の現実を捉えている。
ターザン 現実感はあるけれども主流にはならない。主流自体がどうでもいい、というやつらなんだから。
柴田 だから谷川ボンバイエのようなユートピア的なものにはピンとこれないという。
ターザン そういう面倒くさいことはもういやだ、ということだよね。
柴田 昭和にかすりもしてない世代だから、そこに希望を持つという発想がないよね。我々はまだ幻想を持っているから、もしかしたらそこにユートピアを求められるんじゃないかと思っちゃうけど。彼ら彼女らは昭和を経過してないから、幻想を持ちえない。
ターザン 幻想を持つこと自体がしょっぱいわけですよ。価値を持つこと自体がしょっぱい、意味を持つこともしょっぱい、というこの三つの題材をもとに、ブレイキングダウンは時代の中にグォーっと躍り出てきたわけですよ。非常にすばらしい発想だよね。
柴田 発想といっても定義してやってるわけじゃないもんね。ディストピアの空気感でグォーっとやってるだけで。
ターザン すごく虚無的でアナーキーなんですよ。何も期待感はないんですよ、実をいうと。
柴田 虚無とアナーキズム。そこが山本さんいわく「時計じかけのオレンジ」とも似ている、ということになるわけだ。
ターザン そう。すべてが暴力的でさ。
柴田 繋がったなぁ、すべてが。
ターザン ありがとう! ばんざーい!